130年のあゆみ

木徳神糧は、1882(明治15)年の木村徳兵衛商店開業以来コメとともにあゆみ続け、日本の食生活を支えるリーディングカンパニーとして2012年に創業130周年を迎えました。 本コンテンツでは、これまでの130年のあゆみをご紹介します。木徳神糧をもっと身近に感じるとともに、ご理解をさらに深めていただけたら幸いです。

コンテンツ

社名の由来

創業者木村徳兵衛
(明治17年21歳当時)

木徳神糧の創業は、1882(明治15)年の米穀商「木村徳兵衛商店」開業にさかのぼります。19歳という若さで創業者となったのが、2代目木村徳兵衛です。 明治15年というと、日本では、日本銀行の開業や早稲田大学(当時は東京専門学校)の創立などがあり、 海外では、スペインで建築家ガウディによる、かの有名な「サグラダ・ファミリア教会」の建設が開始された年です。「木徳神糧はサグラダ・ファミリア教会と同い年!」というと覚えやすい(?)です。サグラダ・ファミリア教会はまだ建設中ですが、木徳神糧もともに成長を続けています。

サグラダ・ファミリア教会

木村徳兵衛商店としての創業から50周年(1932(昭和7)年)を迎える頃には、米から出発した事業は、麦粉、雑穀、飼料、食品など徐々に営業品目が増え(※下表参照) 商域が拡大、新商品の開発にも精力的に取り組んでいました。

創業50周年頃の営業品目(「木徳株式会社 創業100年史」より)

株式会社 木村徳兵衛商店 創業五十周年記念 銀杯(直径:9.2cm) 写真提供:三浦太郎氏

木徳株式会社の誕生

社員が会社名を名乗る時、「木徳でございます」または「木徳商店です」というように省略した呼称が通常化し、業界でも「木徳」が通称となっていました。なかなか正式な社名である「木村徳兵衛商店」は言いづらかったのだと思われます。

1963(昭和38)年、当時の社長 3代目木村徳兵衛は、この古風なイメージの社名一新を決断し、社内で新社名の公募を行い、翌1964(昭和39)年の1月1日、「木徳株式会社」が誕生しました。

この年は、東海道新幹線の開業、東京オリンピック開催など、日本経済の高度成長期の真っただ中にあり、まさに新たなスタートとしてふさわしいタイミングでした。

当初の社名ロゴ

東京オリンピック聖火リレー起点(宮崎市・平和台公園)

木徳神糧株式会社へ

そして21世紀の新たなスタートを控えた2000(平成12)年、「木徳株式会社」と「神糧物産株式会社」が合併し、両社の社名を合わせた現在の社名となりました。

本社外観(東京都千代田区)

ロゴマークについて

人が生きていくエネルギー源となる「米」。
その「米」が人と人、人と社会を結び、ネットワークを形成していく…。

このマークには、コメの供給を社会的使命とする木徳神糧が、消費者、取引先、株主、従業員など、あらゆるステークホルダーと良好な関係を築き上げ、限りない発展を遂げていくという、強い決意がこめられています。

木徳神糧の歴史 創業期(明治)

明治15年 日本橋に「木村徳兵衛商店」開業

明治15年(1882年) 1月、日本橋兜町三番地に米穀商「木村徳兵衛商店」を開業したのが木徳神糧の歴史の始まりとなります。 19歳という若さで創業者となったのが、 2代目木村徳兵衛(幼名:孝次郎)です。

2代目木村徳兵衛は、元治元年(1864年) 5月19日、現在の神奈川県横須賀市の廻船問屋加渡屋 馬場吉右衛門の二男として誕生しました。明治維新からさかのぼること4年という、まさに幕末の激動期に生を得ました。そして、明治3年(1870年)、7歳の時に初代 木村徳兵衛の養子となります。

12歳になると、神奈川県藤沢町(当時)の酒造業 桜本喜兵衛商店に丁稚奉公に出ます。藤沢町を中心に江の島、鎌倉、戸塚、横浜方面10里(39.27km)の間の販売や運搬を受け持ち、日の出から日没過ぎまで働く毎日を過ごしました。その勤めぶりが主人に認められ、16歳の時には酒の仕込みから販売まで主人を補佐し、同僚の指導を行うまでになりました。

しかし17歳の時、老齢となった養父 木村徳兵衛を助けるため退店、やがて家督を相続し2代目 木村徳兵衛となり、米穀問屋としての道を歩むこととなります。

当時の米問屋は、各地から大量の米を委託されてこれを扱う「委託問屋」、自分で産地から直接米を仕入れて扱う「買付問屋」、これらを兼業する問屋という3形態がありました。木村徳兵衛商店は、「買付問屋」として主に東北・北陸地方産米を仕入れ、船便で輸送して市中に販売し、小資本ながら大量の商いを行うことで実績を積み上げていきました。1886年(明治19年)には東京廻米問屋組合に加入し、廻米問屋として同業者の信頼を得ていきます。

また、鉄道網の発展により、明治中期の米の流通形態は船舶輸送から鉄道輸送へと移行していきます。明治41年には秋葉原の貨物駅を利用する「神田川米穀市場」が開設されます。木村徳兵衛商店は、東京廻米問屋市場と神田川米穀市場の両市場の特徴を生かし、商売を広げていきます。

「木村徳兵衛商店」開業の地である日本橋兜町三番地付近 ※地図をクリックすると、拡大図が開きます。

※「東京廻米問屋組合」とは
明治維新以来、東京府には正米*を扱う公認の場がなく、米問屋の見本米を持った仲買人たちが兜町に集まり、米の売買や取次をしていたが、明確なルールがなく慣習による取引のためトラブルが多かった。
そこで政府は、東京府に米の流通機構を整備するよう命じ、深川の米穀荷扱所名で廻米業を経営していた渋沢喜作(実業家 渋沢栄一の従兄)が代表者となり、明治16年(1883年)「廻船問屋組合」を組織、明治18年(1885年)に「東京廻米問屋組合」へと発展。
明治19年(1886年)には「東京廻米問屋市場(後の深川正米市場)を開設、同組合が経営を行う。 *「正米」(しょうまい)とは 米の現物のこと。正米市場は米の現物取引を行う市場のことで、先物取引を行う米穀取引所とは区別される。

深川に本店を移転

1886年(明治19年)に深川区佐賀町に開設された東京廻米問屋市場は、それから正米取引の中心となったため、 2代目木村徳兵衛は1894年(明治27年)に本店を同町内に新築・移転しました。その後50数年間にわたり、本店所在地として歴史を刻んでいきます。

本店を移転し商売も益々順調に進むかに思われましたが、この年7月の日清戦争の勃発で、農業労働力が戦争に駆り出されたため、翌年から米の生産量が急速に減少していきます。これにともない、米の相場も大きく変動します。さらに1897年(明治30年)は大凶作となり、この年を契機に米の需給調整が輸入米で行われるようになります。

翌年の1898年(明治31年)は逆に気象条件が良く豊作の見通しとなったため、8月以降の正米相場は急速に下がっていきました。 2代目木村徳兵衛は米の収穫期を迎えた秋に、米穀問屋仲間と共同で商米の買い付けを行いましたが、その後も下落が止まらず、正米取引で大損失を出してしまう結果となりました。しかし念のため、自分の持ち分について清算取引で売りつないでいたため、正米の損失分を補った上、さらに利益が残る結果となりました。

この時、 2代目木村徳兵衛は、米のような相場変動の激しい商品の場合、いかに経験と知識があっても、投機的な取引をすると一瞬にして大損失を招くという危険性があるので、わずかであっても利鞘を取る商売に徹することが真の商売であると悟りました。
この経験から、「商売は安全で堅実であることが第一で、投機的な商売をしてはならない」ということが店是となりました。

その後、商売はさらに発展し、明治42年(1909年)には、東京廻米問屋組合の幹部である行事に就任、業界の発展にも力を注いでいくことになります。

深川区 佐賀町店舗

※「清算取引」とは
米の現物を売買する正米取引に対して、現物を伴わない取引として清算取引がある。清算取引で売買の対象となる米を、一定期日に清算することから、正米に対し「定期米」または「期米」という。清算取引を行いたい人は、米穀取引所を相手に定期米の売買を行った。

木徳神糧の歴史 興隆期(大正)

大正9年 株式会社木村徳兵衛商店を組織

明治時代末の明治44年(1911年)、2代目木村徳兵衛の長男 木村孝太郎が入店し、父木村徳兵衛の事業を大いに助けます。大正時代、木村徳兵衛商店は興隆期を迎えることになります。

大正7年(1918年)に米の東西市場の連絡を目的に大阪出張所を開設、大正8年(1919年)には政府取り扱い外米の指定商となります。さらに、大正14年(1925年)には神戸出張所を開設しました。

大正8年(1919年)、東京米穀商品取引所が深川佐賀町に第三部市場を新設し、小麦及び豆かすの取引が開始されます。木村徳兵衛商店は、これまでの米穀商品以外に肥料や雑穀などの新商品の取り扱いを強化し、事業は益々発展していきます。

そして、木村孝太郎に続き、大正9年(1920年)に4男 球四郎が入店、さらに5男 房五郎の入店が決定するに至り、木村徳兵衛商店の更なる発展の基盤が整ったことを受け、 2代目木村徳兵衛は、同年10月18日に資本金100万円で株式会社木村徳兵衛商店を組織しました。

神戸出張所

はんてん(株式会社木村徳兵衛商店) ※画像をクリックすると、拡大図が開きます。

大正12年の関東大震災を復興への道のり

大正12年(1923年)6月、2代目木村徳兵衛は東京廻米問屋組合の総行事に就任します。この時木村徳兵衛は59歳となっており、創業から約40年の月日を経て、米穀問屋を代表する地位となりました。

最良の年になるかと思われた矢先、9月1日に関東大震災が発生します。震災は、株式会社木村徳兵衛商店にも、物的・人的に甚大な被害をもたらしました。

本社社屋と倉庫のある一帯は、低湿地帯で堀割、河川に囲まれた軟弱な地盤で、地震と火災で社屋・倉庫とも全て消失してしまいます。震災当日、約8万俵のお米、ふすま、大豆、大豆かすなどが倉庫に保管されていましたが、各倉庫に火の手が広がり、手の施しようのない有様でした。

関東大震災後、以前から取引のあった芝浦の山田精米所に社員が集結し、倉庫の一部を借り受けて一時の仮事務所とします。同年末に丸の内のビルに仮事務所を設け、商売の再開にこぎつけます。

運良く消失を免れた横浜倉庫に保管されていたふすま、大豆かすなどが大幅に値上がりして利益をもたらします。さらに、商社勤務で中国貿易の経験がある4男 木村球四郎常務が、中国より大量に輸入した木炭の販売を行うと、飛ぶように売れたため、震災の損害の一部を補うことができました。また、東京での米不足を憂慮し、米国の商店の協力を得て約6,000トンのカリフォルニア州米の輸入を行い、東京市民の不安解消に尽力しました。

震災の翌年(1924年) 3月、深川佐賀町の消失店舗跡地に木造事務所が完成しますが、商売が活況を呈し従業員が増加するに伴い事務所が手狭になります。そこで、大正15年9月に新社屋の建設に着手、翌年2月に鉄筋3階建ての本社屋が完成し、ここに震災からの復興が成りました。

※1918年の「米騒動」
大正3年(1914年)に勃発した第1次世界大戦は、主戦場が欧州のため、日本はかえって好景気を迎えた。その後、物価が上昇傾向となるとともに米の投機が盛んになり、米価は上昇の一途を辿る。

このような情勢のなか、大正7年(1918年)に富山県で米の販売を求める騒動が発生し、やがて全国的な騒動となる。約50日間にわたる騒動の参加者は数百万人ともいわれ、多くの逮捕者を出す事態となった。また、時の内閣総理大臣 寺内正毅が辞任し、後に「平民宰相」と言われた原敬内閣誕生のきっかけとなる。政府は恒久的な米価対策の検討を行い、大正10年4月、「米穀法」を公布、後の食糧管理法への布石となった。

関東大震災

本社屋

米価暴騰の抑制策として行われた東京府の米安売り巡回販売

木徳神糧の歴史 復興期(昭和)

事業の発展 ― 経営の多角化

昭和2年(1927年)に新社屋が完成して基盤が整うと、それから積極的に新事業を展開していきます。

畜産といえば馬産を意味した大正10年頃から、昭和5~6年頃までの馬の飼料は単味飼料であるふすまが主でした。この頃の木村徳兵衛商店のふすまの取扱高は、月間2万トンを超えるほどあり、ふすまに関するかぎり、どの種類でもいつでもあるという状態で、飼料の需要が伸びるとともに、「米の木徳」から「米と飼料の木徳」へと発展していきました。

また、大正末期から昭和初期にかけては養鶏が盛んとなり、飼料の需要が益々高まりを見せ、常務木村球四郎のもと飼料課を設置するなど、飼料の取り扱いを推進していきます。昭和3年(1928年)には、三井物産、館野栄吉商店とともに、配合飼料の製造・販売を行う 「日本配合飼料研究所」を設立、商品名「三井完全配合飼料」を世に送り出します。そして翌4年には同研究所を法人化、日本配合飼料株式会社として新たなスタートを切りました。 「三井完全配合飼料」は好評で販路が急速に拡大したため、結果として全国に販売網を築くこととなりました。

また、養鶏事業へも進出を図り、昭和6年(1931年)に小穴家禽研究所と業務提携して、同研究所で生産する初生雛を一手に販売、翌7年には木徳養鶏場を開設します。

さらには、製粉事業にも進出するなど「商業から工業へ」と商いを拡げていきます。昭和5年(1930年)木徳製粉所を福岡県に開設するとともに、福岡出張所(翌年九州支店に昇格)を開設します。昭和7年には同製粉所を木徳製粉株式会社として設立し、さらに工場を新設するなど製造・販売を強化しました。

繊維事業へも進出を図り、昭和9年に日本人造繊維株式会社を創立します。従来の「食」から「衣」の分野にも事業を展開します。

新商品の開拓にも注力し、昭和7年(1932年)「米屋の豆炭」、昭和8年「カルク」(炭酸カルシウム剤:馬や乳牛の骨軟症の予防等)、昭和10年「白眉大豆」(豆腐原料用)などのヒット商品を送り出しました。

取り扱い分野・品目は拡大の一途を辿りますが、昭和16年(1941年)の太平洋戦争勃発により統制経済への移行とともに、昭和18年に問屋業を閉鎖しました。事業の発展は一旦、ここで終わりを迎えます。

時を同じくして、創業者の二代目木村徳兵衛が昭和16年(1941年) に78歳で死去します。明治維新間際に生を得てから、正に激動の時代を駆け抜けた生涯でした。さらに遡ること2年前の昭和14年には、父を助け木村徳兵衛商店の興隆期を築いた長男の木村孝太郎が病のため亡くなります(享年51才)。

※「単味飼料」とは
ふすま、米糠、とうもろこし、こうりゃん、大豆かすなど、混合・配合していない単品の飼料のこと。2~3種類を混ぜた飼料が「混合飼料」、4種類以上を混ぜたものが「配合飼料」と称された。

製粉ブランド (ベスト印、不二印、赤リス印、白福字印)

九州支店付属工場

日本人造繊維ブランド (日光、晃光、金天狗)

戦後の復興 ― 木徳株式会社へ

昭和20年(1945年)に第二次世界大戦が終わり、日本の再生への長い道のりがはじまります。

戦時中の昭和17年(1942年)に制定された「食糧管理法」により国家による食糧管理体制が強化されましたが、戦後のGHQ(連合国軍総司令部)体制においても昭和27年4月にサンフランシスコ講和条約が発効するまで 食糧政策が実施されました。

戦時中から終戦後の食糧危機は、生産量の回復とともに昭和25年(1950年)頃には落ち着きを見せます。米穀の配給業務が、ようやく民営に切り替わることが予想できるようになり、戦前の米穀問屋や新規での参入を狙う人の動きが活発化します。

木村房五郎と3代目木村徳兵衛(2代目 木村徳兵衛の長男 木村孝太郎の長男 木村孝一)も、米及び飼料などの問屋業の再開に向け動き出します。そして昭和25年、株式会社木村徳兵衛商店を再び設立、木村房五郎が社長、専務に3代目木村徳兵衛が就任しました。翌26年には米の卸売販売業者として売買を開始、米問屋としての再出発をきりました。続いて昭和28年に名古屋営業所、神戸営業所、昭和29年には高円寺営業所を開設し、販売拠点の再構築に取り組みます。

戦後の再発足から10周年を迎えた昭和35年(1960年)頃には、事業は戦前の最盛期を彷彿させるほどになりました。社長として戦後のこの復興を成し遂げた木村房五郎は、同年、社長職を3代目木村徳兵衛に託します。

社長となった3代目木村徳兵衛は、古風なイメージの社名を、高度経済成長期を迎えた新しい時代に合う社名への変更を決断、昭和39年(1964年)の1月1日に「木徳株式会社」が誕生しました。この年は、東海道新幹線の開業、東京オリンピック開催など、まさに新たなスタートとしてふさわしいタイミングでした。

再発足当時の事務所

高円寺営業所

飛躍 ― 創業100周年

戦前「日本一の米問屋」とも呼ばれるほどの地位を得ていましたが、戦後の再発足後は食糧管理制度下にあって他社の後塵を拝す状況にありました。しかし、昭和44年(1969年)産米から実施された自主流通米制度が一つの契機となります。

「良質米の確保こそ第一」の方針のもと、生産地への積極的なアプローチを行います。また、これからの卸売販売業者は大型精米工場の保有が必要との考えから、昭和44年(1969年)に同業の梅原米穀株式会社と共同で都米穀株式会社を設立し、翌45年に精米工場が稼働します。昭和46年に自主流通米ブランド「あじわい」を発売します。

また昭和47年(1972年)に米穀小売業者の新規参入制度が実施されると、スーパー、デパート、生協、食料品店などでも販売されるようになり、各卸が自社ブランドで精米の販売を開始します。木徳株式会社でも「福寿」、「秋田米」などのブランドを投入するなど米穀事業が伸長します。

飼料事業、畜産事業も積極的に展開していきます。また、新事業として米穀店を対象としたコンビニエンスストア「ユーマート」を展開し、昭和46年(1971年)に世田谷区奥沢に第1号店を開店します。ユーマートチェーンの展開にともない総菜事業にも進出、昭和49年にクックマンチェーン、昭和51年にはユーマートデリカショップチェーンを開始します。

このように会社が新たな段階を迎えるにあたり、3代目木村徳兵衛は、実弟の木村謙三に社長業を引き継ぐことを決意、昭和47年(1972年) 、木村謙三は社長に就任します。

その後、木村謙三は社長として、高度経済成長後の不況などによる訪れた経営危機を乗り切り経営再建を果たし、昭和56年(1981年)に無事、創業100周年を迎えました。

左:自主流通米「あじわい」
右:自社ブランド「福寿」

ユーマート1号店

木徳神糧の歴史 発展期(平成)

平成12年 木徳神糧株式会社に社名変更

昭和47年(1972年)に社長に就任した木村謙三は、それから約20年にわたり社長を務めました。そして平成時代を迎え、最初の海外現地法人 アンジメックス・キトクを平成3年(1991年)に設立して海外展開の足がかりを築くと、翌4年(1992年)に木村良へ社長の任を引き継ぎました。

海外展開は、その後、平成8年(1996年)にキトク・アメリカ(米国)、平成20年(2008年)にキトク・タイランド(タイ国)、平成23年(2011年)の木徳(大連)貿易(中国)の設立と続きました。

平成5年(1993年)、高まる無洗米の需要増加の機会を捉え、無洗米ブランド「楽しきわが家」を発売しました。その後、「あきたこまち」「魚沼産コシヒカリ」等の商品が開発され、無洗米シリーズとして定着しています。

平成6年(1994年)には、精米事業の拡大を見据え、埼玉県桶川市に大型精米工場を建設しました。さらに、米穀事業の更なる発展をにらみ、平成7年に売買同時契約方式(SBS)による米穀輸入取扱資格、平成10年にはミニマム・アクセス(MA)による政府米の輸入業務参加資格を取得しました。

そして21世紀の新たなスタートを控えた平成12年(2000年)、会社の規模拡大と商圏の拡大を見据え、「木徳株式会社」と「神糧物産株式会社」が合併し、両社の社名を合わせた現在の社名となり、新たなスタートをきりました。

アンジメックス・キトク有限会社・本社

無洗米 ブランド

桶川精米工場(埼玉県)

平成13年 ジャスダック市場に上場

木徳神糧株式会社として社名を新たにした翌年の平成13年(2001年)7月18日、遂にジャスダック市場に株式の上場を果たしました。

「伝統的な米穀卸から脱却してメーカーの発想を」という方針の基に、主力事業である米穀事業に次ぐ第2の柱として、食品事業の育成に注力し、「健康」を切り口とした新商品の開発を進めました。

平成14年(2002年)には、新潟製粉工場が竣工し、新規事業として米粉業に進出を図り、「米粉ライト」などの企画新商品の販売を開始しました。またこの年、付加価値商品として「たんぱく質調整米」の販売も開始しました。現在は、無菌米飯をはじめ、せんべい、お粥、みそ、和菓子、焼きおにぎりまで商品のバラエティが拡がっています。翌15年には、木徳九州株式会社(現:九州支店 福岡工場)の新精米工場が本格稼働するなど、商品企画開発力の拡充と、生産力の向上を推進しました。

平成19年(2007年)、平山惇が創業者以外からの初の社長となりました。就任の翌20年にキトク・タイランド(タイ国)、23年に木徳(大連)貿易(中国)を設立するなど海外展開を推進、22年にはタイ国政府より「タイランド・ベストフレンド賞」を受賞しました。また、鶏卵事業、食品事業においても、外食向けの開発営業の強化を図るなど、事業の育成に努めました。

また、付加価値商品のラインアップの充実にも努め、「こめしぼり」などのヒット商品を生み出しました。「こめしぼり」は「フード・アクション・ニッポンアワード2010」のプロダクト部門で入賞し、 高い評価を得ています。

また、新たなプロジェクトにも取り組みました。平成19年(2007年)、お米の消費拡大と新商品開発を目的とした「おこめにすすもう e顔※食卓プロジェクト」をアルファー食品株式会社、大塚食品株式会社、株式会社神明と立ち上げました。

新潟製粉工場

付加価値商品群

「こめしぼり」

平成24年 創業130周年を迎える

平成23年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災は、東北支店および仙台工場に壊滅的な被害をもたらしました。営業休止状態へと追い込まれましたが、同エリアでの早期復旧を目指して支店を移転し、同年5月に東北支店は営業を再開しました。

創業130周年を迎えた平成24年(2012年)1月、グループ内の経営資源やノウハウによるシナジー効果の最大化を目指し、備前食糧株式会社、木徳九州株式会社、木徳東海株式会社の3社を吸収合併しました。

木徳神糧株式会社は、これからも、米穀事業、食品事業、鶏卵事業、飼料事業の更なる事業の発展と、海外市場の創造に積極的に取り組み、新たなる飛躍を目指していきます。